Press Turn

ジャーナリズム論的あるいは私生活的な転回について

1月4日 Online Journalism

 
◼︎Online journalism

もう何年も前のオンラインジャーナリズムの紹介本に出てた図。

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一つの出来事に対してニュースの出し方は多様だし、リーチの仕方、対象も異なる。

デジタルへの対応が進んでいるアメリカとかでは、すでにモデル化されているけれど、

デジタルファースト、という言葉自体、社内でまだ聞かないような我々は…という残念な仕事始め。

 

 

1月3日

adapt or die     デジタルシフト(海外編)

海外のデジタルへの対応は明らかにに日本より早いしダイナミック。まあそうしないとつぶれちゃうし。さしあたり以下の二つは参考になるか、と。

 

一つは英国のエコノミストのデジタル担当エディターとのインタビュー。情報が溢れかえる時代に、自分たちの存在価値は "Desert Island Magazine"であることだっていってる。

www.niemanlab.org

 

もう一つはNew York TimesのInnovation report. NYTはデジタルの課金を戦略的に進めていて、確かデジタル読者層のコアな10パーセントほどが利益の半分以上を出しているとかいうようなことをいっていた。なので、NYTなしには生きていけない、というような読者を調教するする必要があり、そういう読者層から利益を出すのだ、といっていたような気がする。

www.niemanlab.org

 

どちらもNiemanLabの記事。

 

 

 

 

 

1月2日 紙とデジタルの不思議な関係

休刊日

2日は休刊日。ニュースはテレビとデジタル頼りだけど、デジタルのニュースは少なめ。紙の紙面が発行されない、というだけの理由でデジタル版もニュースが少ない、ということになってよいのかな、と思ったりもする。逆にいうとデジタルが紙媒体のニュースに依存していることがよく分かる。デジタルニュースは「自立」できていないのかもしれない。とはいえ、The Economist紙がやってるespressoというニュースサービスなんかは 「sorry holiday」とかいう画面を出して平気で更新しない。その割り切り方はそれで気持ちいいけど。

Print 

そういうわけでデジタルの話をしようと思ったけど、ちょっと寄り道して販売の話。新聞業界で販売というときは新聞社と新聞販売店の取引とかの関係の総称だと思えばよい。昨年、幸田泉さんという方の書いた「小説新聞販売局」がでて、話題になった。

新聞はいつまでも「インテリが作ってヤクザが売るもの」でいいのか?-『小説 新聞社販売局』幸田泉氏インタビュー (1/3)

 

話題の焦点の一つが「押し紙」。そういう生々しい表現より「残紙」とか「予備紙」とかいうほうがよく耳にする。週刊誌とかいろいろなところで見聞きする限り、どれも3割程度という数字がよく出てくるからだいだいそんなもんなのかもしれない。

販売の前近代性、非合理性という意味では値段のほうがもっと不思議では。新聞の定価は正式には2種類しかない。統合(夕刊のない地域)とセット(朝刊と夕刊両方ある地域)。もっともセットの地域に住んでる人だって夕刊はいらない、という人が多いから朝刊だけっていう風に契約してる人もいる、けれど、この「セット帯に住んでるけど朝刊のみ」という場合の定価は存在しない。販売店がこれくらいでといってだいだい統合帯とかと同じくらいの値段にしてるらしい(知人が朝刊だけとってて3000円くらいっていってた)。再販制度との関係なのかという気もするけど理屈がわからない。定価もはっきりしない商品を売ってるていうのも、どうなんだろう。

昨秋あたりに読んだ週刊誌(新潮だったかな)だと、新聞の販売店への卸値がざっと2200円くらいで、これ以外に一部あたり500円の奨励金を新聞社が販売店に渡す(キックバック)ので、実質の卸値は1700円ほどだという。なので、朝刊だけでもある程度の利益はでるのかもしれないけど。

digital

そして再びデジタルの話。発行部数の多い新聞社は、それだけの販売網を維持しているわけで、デジタルとの関係はデジタルが増えればよいというだけにはならない。その分プリントが減ったら困るから。そいう視点で見ると時、下の表と新聞の卸値はけっこう興味ふかい。

 

      digital        print     both

日経 4200円 4500円 5500円

読売      4000円 +150円(プレミアム)

毎日 3200円 4000円 *(愛読者セットは講読料のみ、+500円でプレミア)

朝日 3800円 4000円 +1000円

 

第一に、上述したプリント版の販売店への卸値を考えると、現在のデジタル版のみの購読料は新聞社の利益がべらぼうに高くなるように設定されているということになる。今の部数がそのままデジタルに移行したらもうかって仕方ない? 逆にいうと、購読者がデジタルに簡単に移行しにくいような価格設定になっている、とも言える。

第二に紙の販売部数が一番多い読売はデジタルのみの会員設定をしていない。一方、紙で苦戦(販売店も見るからに苦しそう)の毎日はデジタルonlyの契約を紙より低い設定にして、デジタルで勝負する姿勢を強めに出している。朝日は「紙も、デジタルも」といっていたそのままに、中途半端。

こういう価格設定から垣間見える経営方針を見ると、デジタルへの移行はダイナミックには進まず、コンテンツのデジタルファーストも、日本の大手新聞社ではなかなか進まないのではないか、進むとすれば毎日なのか、という気がしてくる。

そういった目で休刊日のデジタル版を見比べるとちょっと違うかもしれない。毎日はがんばるのかな、とか。

 

 

 

 

 

 

 

 

1月1日

元旦社説

こういうのはもうどれだけ意味があるのか、という気もしてきた。だれも読んでないだだろうし、そんなに影響力がある訳でもないし。とはいえ、それぞれが正月にいっておこうという何かが見えてきて、それなりにカラーというものは見えるので1月1日というフックも無意味ではないかも。

毎日はスタンダードなリベラルな民主主義のありかたを再確認しよう、という教科書的な社説(とはいえこういうのが全然ないのも困るか)。EMフォースターの「民主主義に万歳二唱」(two cheers for democracy)を引用してた(岩波文庫のエッセイ集にも入ってたかな)。読売は総論ではなく具体的な政策提言。経済、安保、普天間移転、今年はこれをやれ、と。朝日は、社会の中で流通する言葉の軽さを言いたいのかと思ったけど、導入部が意味不明で実は何が言いたいのよくかわからかった(言葉の軽さをいうなら自分たちジャーナリズムの言葉こそ、じゃないのかな?)。東京は原発と世界の戦争を見つめて、自分たちの頭と身体で考えましょうと、視点の置き方が低いあたりが東京の良さかと思った。

各社とも、そのために自分たちはこうしますから、よろしくね、という挨拶があったほうがいいと思った。

今年の新春なら…polarizationがどんどん進んで議論の場が失われてしまっています。これこそが危機です。民主主義、憲法、戦争、歴史、原発、沖縄、暮らし…課題がたくさんあっても、共通の議論のプラットフォームがどんどん失われてしまっているのです。新聞ジャーナリズムが公共財として存在しつづけることが許されるなら、その議論の広場にならなければなりません。そのための素材を提供していきます、という感じの社説が読みたいかな。

 

◼︎12月31日

◼︎慰安婦合意波紋

少女像の撤去が10億円拠出の前提なのか否か。記者会見の発言を読む限り、前提とは読めないけどな。産経が描く安倍は「もう謝罪もしない」「約束やぶったら韓国終わり」とか元気。メートルがあがるってやつか? 謝罪する、しない、とかいう問題と、そういう事実があったということはまた別の話。てか、どう考えても反省してる人の口から出る言葉じゃないようにも思う。 

 

韓国は少女像の撤去は前提じゃないっていってる。不可逆的ってのは、日本の修正主義的な動きも終わりにしてもらうってことだ言ってる。双方が自分たちに好都合に理解できるっていう合意だったのかな。文書化されてないし。よけいごちゃごちゃするだけなら、両方の国の外交能力が問われちゃう。

 

いずれにしろ、そこじゃないだろう、という思いが残る。戦争をして、兵隊がいて、性欲を処理するために、業者が女性を手配する、という構造がおかしい。要するにああいうスタイルの戦争がおかしいにきまってる。被害を受けているのは、兵士であり、市民であり、子供であり、女性じゃん。周恩来だっけか、日本と中国の両国の人民が被害者だった、と言ってたけど、そういう発想は今ではないのかな。そういえば、周恩来はゲイだったという本が出たとNYTに書いてあった。

12月30日

慰安婦問題

◼︎日韓の慰安婦合意にはアメリカが歓迎の声明。てか、日韓中のバランスの中で大きな絵をかいたのはアメリカでしょ、と。歓迎もなにも全部知ってて当然で、アメリカの了解の下で行われた日韓2国間交渉。もっとも、そこを正面から書いてる社はなくて、安倍と岸田と韓国とのやりとりとかが中心なのが、つまらないところか(むしろ白井聡とかにそういった問題意識がある)。

◼︎朝日の記事は、首相の慰安婦像へのこだわりがメーンに。慰安婦問題のほぼすべてを少女像というシンボリックスピーチに矮小化する安倍の感覚のあまりに射程の短い異常さ。大使館前の像を撤去が10億円の前提だっていうだから、そのこだわりは尋常でない。もっとも、あの合意で韓国側の撤去が前提という風に読めるのかな? だから文書になってないのか?

◼︎そして、どう考えてもこれって変節でしょ、ってところは斎藤美奈子嬢が東京のコラムで指摘している。安保法制でのアメリカでの発言と国会での発言の違い、慰安婦問題の軍関与、政府責任に関するこれまでの姿勢と今回の合意のズレ。タカ派でもなく修正主義者でもないなら、安倍は一体何者なのか?

 

◼︎安倍がこだわっているもう一つ、将来世代にいつまでも謝罪させないと言ってることには、テッサモーリス・スズキが25日の朝日で、後の世代には implication がある、と指摘している。辞書を見れば、implication in crime で共犯。歴史的な共犯関係って感じか。

◼︎韓国にしてみれば、この問題で妥協しても得るだけのものがる、ということか。

 

 

12月29日(火)

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慰安婦問題

日韓外相会談での合意。日本側の政治的勝利というトーン。たしかにそうかもしれないが、「政治的な解決」と慰安婦問題の解決とは同じではないだろう。書生論的にいえば、政治的な解決は最後だろう。市民や学術的なレベルでの解決なり合意なりがベースにあって、その上で政治的な解決があるのが普通では。

アメリカの枠の中でしか外交ができない、という白井聡の指摘がネット上に。それにしても、白井の主張とも重なるが、ここにきて、いきなり政府の責任を認める節操のなさ。アメリカでガイドライン合意をした時に言ったことと、帰ってきて国会で言ってることが違う、という指摘もあった。実質的に何も言ってないような論文や社説より「この人の考えていることは訳がわからない」と素直に書いてもいいと思うが。

 

ちなみに、英語ではこういったことになってる(NYT)

The issue of ‘comfort women’ was a matter which, with the involvement of the military authorities of the day, severely injured the honor and dignity of many women,” the foreign minister of Japan, Fumio Kishida, said on Monday, as he read from the agreement at a news conference in Seoul. “In this regard, the government of Japan painfully acknowledges its responsibility.”

Mr. Kishida also said that Mr. Abe “expresses anew sincere apologies and remorse from the bottom of his heart to all those who suffered immeasurable pain and incurable physical and psychological wounds as ‘comfort women.’ ”

記事の中で、安部はそれまでの政府の謝罪をscrapするための証拠を探す作業に着手していたけどさ、と押さえておいて、談話を引用する形で、今回の合意はpragmaticなものであり、一方で、これで慰安婦たちの存在を影に消すようなことがあってはならない、という指摘もしている。普通によくできた記事だと思った。伝統的な英文記事って感じで、こういう記事好き。

 

Japan and South Korea Settle Dispute Over Wartime ‘Comfort Women’

http://www.nytimes.com/2015/12/29/world/asia/comfort-women-south-korea-japan.html?ref=world&_r=0

 

■河北歌壇(花山多佳子さん選)

「待ってろ」と言いて往きしが還り来ずその言の葉を時に嚙みしむ(塩釜、阿部わき)

◇「時に嚙みしむ」に実感がある。長い歳月を経て、還らなかったことよりも、「待ってろ」という言葉、その口調が反芻されるのだ。言葉は生きていて、いつでも味わえるのだ。(選者評)