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ジャーナリズム論的あるいは私生活的な転回について

12月29日(火)

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慰安婦問題

日韓外相会談での合意。日本側の政治的勝利というトーン。たしかにそうかもしれないが、「政治的な解決」と慰安婦問題の解決とは同じではないだろう。書生論的にいえば、政治的な解決は最後だろう。市民や学術的なレベルでの解決なり合意なりがベースにあって、その上で政治的な解決があるのが普通では。

アメリカの枠の中でしか外交ができない、という白井聡の指摘がネット上に。それにしても、白井の主張とも重なるが、ここにきて、いきなり政府の責任を認める節操のなさ。アメリカでガイドライン合意をした時に言ったことと、帰ってきて国会で言ってることが違う、という指摘もあった。実質的に何も言ってないような論文や社説より「この人の考えていることは訳がわからない」と素直に書いてもいいと思うが。

 

ちなみに、英語ではこういったことになってる(NYT)

The issue of ‘comfort women’ was a matter which, with the involvement of the military authorities of the day, severely injured the honor and dignity of many women,” the foreign minister of Japan, Fumio Kishida, said on Monday, as he read from the agreement at a news conference in Seoul. “In this regard, the government of Japan painfully acknowledges its responsibility.”

Mr. Kishida also said that Mr. Abe “expresses anew sincere apologies and remorse from the bottom of his heart to all those who suffered immeasurable pain and incurable physical and psychological wounds as ‘comfort women.’ ”

記事の中で、安部はそれまでの政府の謝罪をscrapするための証拠を探す作業に着手していたけどさ、と押さえておいて、談話を引用する形で、今回の合意はpragmaticなものであり、一方で、これで慰安婦たちの存在を影に消すようなことがあってはならない、という指摘もしている。普通によくできた記事だと思った。伝統的な英文記事って感じで、こういう記事好き。

 

Japan and South Korea Settle Dispute Over Wartime ‘Comfort Women’

http://www.nytimes.com/2015/12/29/world/asia/comfort-women-south-korea-japan.html?ref=world&_r=0

 

■河北歌壇(花山多佳子さん選)

「待ってろ」と言いて往きしが還り来ずその言の葉を時に嚙みしむ(塩釜、阿部わき)

◇「時に嚙みしむ」に実感がある。長い歳月を経て、還らなかったことよりも、「待ってろ」という言葉、その口調が反芻されるのだ。言葉は生きていて、いつでも味わえるのだ。(選者評)