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ジャーナリズム論的あるいは私生活的な転回について

鶴見俊輔もしくはフリッパーズギターのCamera full of Kisses

ディスコミュニケーションをあきらかにすることが、より良いコミュニケーションである場合が多い」

鶴見俊輔著作集3、『二人の哲学者』という論文の脚注。

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この論文は、デューイのコミュニケーション論批判だけど、全然古くなくて驚いた。

コミュニケーションはcommunication/dis-communication という二重の性格を持つものとして理解されるべきだ、という視点からcommunicationの成り立つ世界での理性的な対話なりの中で社会を進歩させようとするデューイの議論は「願望」だと(public sphere論をあらかじめ粉砕してる)。

「今日、我々が科学的方法によって知りうる限りでは、人間の価値評価は根本的に多元的なものである。この状態が近い将来において爆発的に変わらぬ限り、ディスコミュニケーションの努める役割は今後も大きいであろうし、理性的説得の方法もデューイが思っているほどの大きな可能性を持たない」

「絶望するのは甘いからだ。絶望は良家の子弟の特権である。この甘い態度がある限り、ぼくたちは、ぼくたちを囲む今日の状況にたいして、効果的であることはできない。この世界に当然あるディスコミュニケーションにたいしても、もっと強くならなければならない。コミュニケーションの皮に隠れたディスコミュニケーションをはっきり見つめ、この質と量を計算しなければならない。「話せばわかる」と言って殺された人は偉いけれど「話せばわかる」と言って殺されたという事実から目をそらす理由にならない」

ディスコミュニケーションは、ぼくたち人間にとって逃れられない状況である。民主化が進もうと、革命を起こそうと、なくならない。ディスコミュニケーションのなかにあって、もっとも有害で、そして、努力次第でなくせる部分を選定して、すこしずつうずめることだ。工程表をつくって、今日の自分の努力を、1ミリ分だけでも、しるすことがきればよい」

ちょっと驚くほど新鮮。なんと1952年の論文!
冒頭の脚注、読んだ瞬間にフリッパーズギターじゃん。

「わかりあえやしないってことだけを、わかりあうのさ」
(Camera Talk「全ての言葉はさよなら」)

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